2018年 04月 28日
悪いのはコンプライアンスなのか? |
昨今、お笑い芸人のコメントとして繰り返し目にするのが次のような内容。
「最近はコンプライアンスがうるさくて、やりたいこともやれない。面白いこともできなくなった。昔はよかった・・・」
私のように、お笑いが好きで、かつコンプライアンスで商売をしている人間としては、こういうコメントを見る度にとても悲しくなります。そして、大きな疑問も感じます。本当に、コンプライアンスって、そんなにお笑いを妨げているのでしょうか?コンプライアンスはお笑いの敵なのでしょうか?
そもそもコンプライアンスをどのように解釈するかによっても変わってはきますが、まず、ありがちな「コンプライアンス=法令遵守」という解釈。コンプライアンス悪玉論は基本的にこの立場です。確かに、社会において年々制約が増えていることは事実です。でも、お笑いというのはむしろその種の制約があるからこそそれをバネにして花開く、という側面も持っています。かつてのソ連などは、厳しい抑圧がなされていたわけですが、一方で秀逸な冗談、風刺、小噺の宝庫でもありました(世に数ある小噺の中で私が最も好きなものはソ連時代のものです)。人々は抑圧されればされるほど、必死にお笑いに逃げ道を求め、そしてそれに応えるようにして様々な痛烈な笑いが生み出されます。そう考えれば、法令遵守の徹底は、お笑いにとっては実は逆風どころか順風のはずです。
そして、コンプライアンスを「期待に応えること」と解釈するなら、これはもう何の妨げにもなりません。お笑い芸人の任務は人々の求めに応じて笑いを提供することですから、まさしくコンプライアンスそのもの。コンプライアンスは悪玉になどなりようがありません。
私は最近のお笑いは質が低下していると感じている一人ですが、その真因はコンプライアンスなどではなく、もっとお笑いとしての根源的な部分にあるように思えます。どんな時代でも、どんな環境でも、それを逆手にとって笑いに変える手段は必ずありますし、それができることこそがプロのお笑い芸人の真価です。お笑いには果てしない可能性があります。「コンプライアンスのおかげで面白いことができなくなった」と安直な思考停止に陥り責任転嫁することは簡単ですが、本当にそうなのか、今一度考えてもらいたいところです。
「最近はコンプライアンスがうるさくて、やりたいこともやれない。面白いこともできなくなった。昔はよかった・・・」
私のように、お笑いが好きで、かつコンプライアンスで商売をしている人間としては、こういうコメントを見る度にとても悲しくなります。そして、大きな疑問も感じます。本当に、コンプライアンスって、そんなにお笑いを妨げているのでしょうか?コンプライアンスはお笑いの敵なのでしょうか?
そもそもコンプライアンスをどのように解釈するかによっても変わってはきますが、まず、ありがちな「コンプライアンス=法令遵守」という解釈。コンプライアンス悪玉論は基本的にこの立場です。確かに、社会において年々制約が増えていることは事実です。でも、お笑いというのはむしろその種の制約があるからこそそれをバネにして花開く、という側面も持っています。かつてのソ連などは、厳しい抑圧がなされていたわけですが、一方で秀逸な冗談、風刺、小噺の宝庫でもありました(世に数ある小噺の中で私が最も好きなものはソ連時代のものです)。人々は抑圧されればされるほど、必死にお笑いに逃げ道を求め、そしてそれに応えるようにして様々な痛烈な笑いが生み出されます。そう考えれば、法令遵守の徹底は、お笑いにとっては実は逆風どころか順風のはずです。
そして、コンプライアンスを「期待に応えること」と解釈するなら、これはもう何の妨げにもなりません。お笑い芸人の任務は人々の求めに応じて笑いを提供することですから、まさしくコンプライアンスそのもの。コンプライアンスは悪玉になどなりようがありません。
私は最近のお笑いは質が低下していると感じている一人ですが、その真因はコンプライアンスなどではなく、もっとお笑いとしての根源的な部分にあるように思えます。どんな時代でも、どんな環境でも、それを逆手にとって笑いに変える手段は必ずありますし、それができることこそがプロのお笑い芸人の真価です。お笑いには果てしない可能性があります。「コンプライアンスのおかげで面白いことができなくなった」と安直な思考停止に陥り責任転嫁することは簡単ですが、本当にそうなのか、今一度考えてもらいたいところです。
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by sendanaoto
| 2018-04-28 12:39
| 芸人
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